文章生成ファクトリー

読書記録など。

オタクの融解についての私見

主ラノの人(id:nunnnunn)の反論がしっくりこないので、自分が思うことを書いてみる。

 


とけたのはオタクじゃなくてお前だよ - 主ラノ^0^/ ライトノベル専門情報サイト

 

たまごまごごはん(id:makaronisan)さんが言いたいのは、本文にも言及されているけど

斑目タイプのオタクがオタクの中心であった時代の消滅

・「オタク=社会の異端、少数派、非リア充」という前提の消失

 ってことじゃないかと思う。

 

斑目タイプのオタク(=マニアックで知識の深いオタク)は、かつては良くも悪くもオタクのイメージの核の一つだったように思う。

それが結果としては一般人(非オタク)とオタクとの乖離の激しさを増す形になっていた。

 

それが、ハルヒがきっかけなのかはわからないけれど、カジュアルなオタクが増えていくフェーズに移行していく。

マスコミもオタクをポジティブに取り上げるようになり、消費者としてのオタクはマーケットとしても無視できない存在として新聞やビジネス誌でも取り上げられるようになる。

町おこしに利用したり、オリジナルの萌えキャラで宣伝を行ったりすることも行われる。

一般人が利用者の中心であるはずのコンビニやファミレス、あるいは交通機関の壁に萌え絵のポスターがあっても誰も驚かなくなった。

戦後トップ10に入るベストセラーの「もしドラ」は表紙が典型的な萌え絵であるにも関わらず当たり前のように売れ続けた。

 

ここで起きていることは、オタクの一般人化としか言いようがない。

少なくとも、萌え絵というだけで一般人とは縁遠い異世界であった時代は過ぎた。

オタクと一般人の距離は近づいた。

それに伴い、斑目タイプのオタクはもはやオタクの典型でなくなる。

オタク知識が豊富な人間が偉いという前提は崩れ去り、流行っているアニメを追いかけるだけのオタクが主流となっていく。

彼らが流行っているアニメだけを追いかけるのは、彼らにはアニメ以外の趣味があり、あまり時間が取れないからだ。

カジュアルオタクにとってオタク趣味は自分の一部でしかない。

だから、リア充でありかつオタクであるということが成立する。

ここにきて、「オタク=社会の異端、少数派、非リア充」という前提が全て崩壊した。

「オタク趣味」は自分の人生の全てを投げ打って獲得するものでなく、映画鑑賞と同レベルの日常の延長としての趣味でしかなくなった。

 

オタク自体のコンテンツでもこれは言える。

かつての漫画・ゲーム・アニメにおいて、「オタク」という存在が作中でまともに取り上げられることはなかった。

少なくとも、一般人と混じって楽しそうに談笑するオタクは殆どいなかった。

オタクはあくまで異端児であり、変人であった。

しかし近年では、少年誌にオタクが主人公たちと同格の扱いとして登場することも多くなったし、ライトノベルではオタクキャラなんて多すぎてリストアップする必要もないくらいになっている。

オタク自体のコンテンツにおいても、一般人とオタクは殆ど区別されなくなった。

 

主ラノの人は、この「一般人とオタクの境界の融和」について批判しないと反論として成立しないんじゃないかと思う。

ただ、恐らく主ラノの人は「斑目タイプのオタク」 を意識していて、確かにこのタイプのオタクは決して消滅していないので、そういう意味では間違っていない。

見ている視点が違うだけの話かもしれない。

 

他の人に言及した記事を書くのは初めてなんで、作法とか間違ってたらすみません。

久々に記事書いたなあー。

読書メーター

本日、読書メーターに登録した。

検索して出てきた本を素早く読んだ本などに登録でき、システム周りもよくて快適に使えそうなのだが、感想・レビュー欄の文字制限が凄い。

何箇所か本の内容に言及した文章を書くと、すぐに字数制限に引っかかる。

これでは、本の中の一部にしか触れられず、大ざっぱな感想しか書けない。

本の感想を検索で調べたりすると、読書メーターが引っかかることも多いのだが、全体的にみんな短く、雑な感想が多いと思っていた。

しかし、あの字数ではそうなるのも仕方ないと感じる。触れたくてもあまり内容に触れられないなか感想を書き続けるうちに、別に深い内容なんていいや、となってしまうことも多いだろう。

まあ、小説や漫画などの感想なら、どこが面白かった、つまらなかったで済むので考察などをしない限りは収まる気もするが、私は一般書の感想を主に書いているので、内容のどこがためになったとか興味深かったとか網羅したくなるのだが、それは許されない。

ブクログ読書メーターよりは人が少ないようだが、字数制限がないとのことなので、短めの感想で十分な本以外は、ブクログに書くのもいいかもしれない。

あとでブクログにも登録したいと思う。

清水真木『これが「教養」だ』 書評

清水真木『これが「教養」だ』 読了後の感想。

この本は、「教養」という言葉の歴史を示し、日本の「教養」という言葉の受容の経緯を探った本。

「教養」という言葉そのものは「ビルドゥング」というドイツ語の訳語として使われた。それが、日本では「修養」という言葉と混ざり、現在の意味に変化していった。概略としてこのような理解でいいと思うのだが、この本の教養の変遷の記述は全体的に散らかっていて、読み返してみても一体どういう意味で使われていて、どう変化したのかがよくわからない。「教養」という言葉が曖昧だからといって記述まで曖昧じゃ読んでいて困るのだが。

教養の原点は当然ながら西洋にあることになる。しかし、教養の代表格である古典(ここでは古典文学)は古代において、作家が過去の文章として参照する価値のある、よくできた文章であることが第一義だったという。また、当時の世界の文化を多く伝えている作品も評価されたという。つまり、現在の古典受容はもっぱら実学とは離れた、実際に役に立つというよりも読者の人格を陶冶するような意味で捉えられているのに対して、少なくとも中世頃まではむしろ実学的な意味で捉えられていたことになる。しかし、ロマン主義の登場により、オリジナリティのある作品が重視されるようになるにつれ、古典は、参照して真似すべき作品群から、真似になっていないか確かめるために参照するものに変化していった。古典はある意味敵対勢力になったわけだ。

しかし、さらに時がたち、古典を役立てるために読むのでなく、古典を読むことそのものを価値とする文化が誕生してくる。ドイツのヴィルヘルム・フォン・フンボルト(地理学者として著名なフンボルトの祖父)が現在の意味での古典受容の先駆者だそうだ。

このあたりの古典についての話は面白かったが、教養の意味の変遷については読んでてよくわからない上にそれほど重要とも思えなかった。

著者は教養という言葉の本来の意味を取り戻そうとしたいのだろうが、そのために「言葉の意味は変化する」という言語学的常識を無視したような論になっている。現在の「教養」は本来ない付随物がくっついたものだという批判は、現在の意味の教養がなぜ駄目なのかをしっかり説明しない限り、無意味である。ただ単に、昔と意味が変わっているから駄目だと言っているようではそれこそ駄目だろうに、そのように受け取れてしまう書きぶりである。

清水氏は、本書の途中で出てくる、「お年玉を上げたくない人はお年玉の歴史から、現在の風習は過去と違っていることを調べあげて、正当化を試みる」という話を実践しているのかもしれない。

 

「噂の真相 25年戦記」 書評

岡留 安則「噂の真相 25年戦記」読了後の感想。

これは、「噂の真相」という、ある種伝説的な雑誌(現在休刊)を立ち上げた編集発行人がこの雑誌の奮闘の歴史を振り返った本である。

と言っても、私自身はこの雑誌を読んだことはなく、名前を知ったのも、昔結構読んでいた(信奉していたわけではないが、信用はしていた)小林よしのりによって「噂の貧相」と揶揄して取り上げられていたことがきっかけだったように思う。ちなみに今はよしのりはほぼ信用していない。

この雑誌は権力的な存在にも果敢に挑戦していて、川端幹人「タブーの正体!」でもそのあたりはよくわかった。川端は噂の真相の編集者で、噂の真相時代のタブー問題を多く語っているので、本書と重複する部分はかなりあった。

川端の本では右翼の襲撃事件が一番ショッキングに思えたが、岡留の本では襲撃事件も騒動の一部という感じで、それほどでもないようだ。

様々な騒動が取り上げられていて、噂の真相の奮闘がよくわかる本ではあるのだが、個人的にどうでもいいような噂の真相立ち上げの細かい経緯だとか、人間関係の話など、興味の起きない部分があり、「タブーの正体」と比べると見劣りした。まあ本来は噂の真相ファンに向けた本なので、多少身内話がある方が面白く読める人も多いのだろうが。

上記は本質的な問題ではないのだが、この著書は全体的に、ある種当然ながら噂の真相の報道は全て正義であり、噂の真相が批判した対象は全て批判されても仕方ないし、噂の真相には誤報はなく訴訟は全て不当である、という凄まじいまでの主張がなされている。少なくとも、この報道は間違いだったと認めた例は本書中にあった記憶が無い。こんな人間をコラム等で使ったのは間違いだった、と言っている例はあるが(宅八郎本多勝一など)、あくまで報道については訴訟沙汰を含め、自己反省はほぼ見られない(右翼襲撃事件については「批判の仕方としては邪道な方法だった」という反省はあるが、誤報という話ではない)。

しかし、ギリギリの線を攻めた報道を繰り返しているのにもかかわらず、長い間記事を書き続けて、一つの誤報もないなんてありえるのだろうか。それこそ、都合の悪いことは隠すか、事実をねじ曲げていないかと疑ってしまう。別に、誤報があったらこの雑誌に価値はないなんて全く思わないし、意味のあるスクープも多くなされたと信じるが、この雑誌はこれほど多くの巨悪と戦い続けた正義の雑誌なのだと言わんばかりの本書の作りは、バランスというものが全く欠如していないか。さらに言えば、それこそ「下品」な記事も多く掲載されていたのだと思うが、そのあたりのあまり正当化しづらそうな部分はあまり触れず(表紙が当初下品なパンチラした女性の絵だった件などは取り上げられている)、正当化が容易な社会正義的な記事が多く取り上げられている印象が強い。まあ、雑誌そのものをそれほど読んでいないので、実際はそれほど下品な記事はなかっただけなのかもしれないが。

色々批判気味になってしまったが、実際に読んでいてそこまで自慢と自信過剰が目に付くわけではないので、全体的には興味深く読めたのは事実である。ただ、先に「タブーの正体」を読んでいたため、やや印象が弱くなったのと、噂の真相という雑誌に思い入れがないというのが評価に影響したのは否めない。

 

 

 

「ブラック・スワン」ナシーム・ニコラス・タレブ 書評

ブラック・スワン」上下巻読了後の感想。

ナシーム・ニコラス・タレブブラック・スワン」は、タレブ氏が、現在の金融工学を中心とした数理系社会科学の問題点を激しく批判した書。

かなりの話題作らしく、タレブ氏は海外では人気者だそうだ。

確かに、本書は、やや脱線した記述も見られるが、全体的に読んでいて面白い上に、金融業界への鋭い批判があり、勉強になる。タレブの主張したいことは、タレブの比喩を使えば、「月並みの国」と「果ての国」を区別して、「果ての国」の現象に正規分布(ベル型カーブ)を適用してはならない、ということが主要になるだろう。金融の世界は、一度の極端な例外(株価の暴落など)によって壊滅的な被害を受けかねない分野であるにもかかわらず、金融工学で使用されるモデルは例外的事象に対応出来ない!この欠陥と、証券マンの運用成績は平均以下であるという様々な調査結果より、タレブは「金融工学の数式モデルは欠陥品」だと突きつけている。数式モデルを作っている経済学者、金融工学者は色々反論したいことはあるのだろうが、結局、本質的な反論は困難だろう。いくら、過去の現象をうまく説明できるようにモデルを改良し、高度な数学を使用して欠陥を見えにくくしても、新たな例外的事象が発生したときにその例外的事象を包括した理論が構成できている根拠はないのだ。そもそも、現代科学ですら複雑系の事象の予知は困難ないし不可能だというのに、人間が関わる経済事象についてモデルを作れば予知可能になるわけがないだろう。

私は、モデル化を否定するつもりはない。有用なモデルを作れば、少なくとも例外的事象以外であればある程度説明できるかもしれないし、そのような研究は続けて行けばいいと思う。しかし、正しさも不明なまま、経済の数理モデルを導いた学者たちにノーベル経済学賞が与えられ、そして後にモデルが破綻したりしていることを思うと、ノーベル経済学賞の意義を少し考えてしまう。もちろん、素晴らしい業績を上げた上で受賞されている方も多いとは思うのだが。

 

「科学と人間の不協和音」「科学の横道」 書評

「科学と人間の不協和音」「科学の横道」読了後の感想。

池内了「科学と人間の不協和音」は、科学者である池内氏による現代科学構造への批判の書。

この著者は以前より、科学についての問題を批判する書をいくつか出している。原発事故によって、日本人の科学に対する信頼は失われた、という。その是非は個人的に疑わしいと思う(原発関係の学者の信頼は相当低下したと思うが、他の分野の学者の信頼性はそれほど変わっていないように思う)が、ともかく、科学と社会はどう付き合っていくべきかを語っている。科学者も人間だから、どうしても社会の要請の影響を受けざるを得ない。つまり、「役に立つ科学」ばかりが要請されがちである、という問題については賛同する。他、ちょっと科学者批判が極端という印象を受ける部分もあるが、その位のほうが科学者からの科学批判のメッセージとしては妥協がなくていいか。

これが、非科学者の意見なら角が立つと思うが、このレベルの過激な批判は日本の批評ではあまり見られないものであるから心配の必要はないだろう。

 

「科学の横道」は、科学とあまり関係無さそうな専門家などと、科学のことをどう捉えているかを尋ねたり、科学を文化にするにはどうすればいいのかを話しあったりしている本。

上記池内氏の本にも記載があったが、一般人に科学を親しみやすくするには、科学的事実ばかりを伝えるのでなく、科学に関する物語を利用するべきでないかという点は、まさにその通りであろう。しかし、大半の対談は、専門的な部分が多く理解できない部分や、あまりテーマと関係なさそうな議論など、やや迷走気味な部分もあった(だから「科学の横道」なのだと言われそうだが)。

一番面白いのは、やはり科学好きの文学者との対談であったのは、さすが文筆家だと思わせる。

「株のからくり」「タブーの正体」 書評

「株のからくり」「タブーの正体」読了後の感想。

奥村宏「株のからくり」は、株の仕組みを解説するだけでなく、現代の株式周辺の動きを苛烈に批判した本。私は株の仕組みを知りたくてこの本を読んだが、思いの外株式会社や金融関係の制度、会社の批判が多く、驚いた。株式会社の理念を曲げている会社の株式交換は不正であるとか、初めて聞くような批判の仕方もあり、新鮮であった。それにしても、金融業界ほど批判一色の業界も無いのではないかと思うくらい、どの本でも金融業界はバッシングされている。マスコミ関係なら批判も激しいが、擁護するような本も多いが、金融業界も大変である。

川端幹人「タブーの正体!」は、噂の真相に関わっていた著者が、日本マスコミに存在するタブーについて語る本。警察のタブーなんて散々不祥事が報道されているじゃないかと思っていたが、やはりトップに近い人間のスキャンダルは公表されにくいようだ。他に、天皇タブー、右翼タブー、芸能のタブー、企業のタブーなど、ひと通りのタブーについて触れている。構造的にマスコミがこのタブーを破ることが難しいとするなら、報道に明るい未来などあるのだろうか、と読んでいて絶望感を覚える本だった。ただ、改めて、そのような構造を意識して報道を見ることが必要であると理解した。