足し算の順序にこだわる理由と、それでも言いたいこと
小学校の算数教育について、最近ある議論が熱い。
かけ算の順序問題だ。
かけ算だけでなく、今度は足し算の順序問題が話題となっているようだ。
こちらも、本質的な問題はほぼ同じだと思うので両方を扱う。
足し算の順序問題についての反応には、「オカルト」「意味がわからない」といった反応も多い。
私は塾の講師アルバイトを行った経験がある程度だが、このような教育方針について、「オカルト」的だとは思わない。その理由を述べる。
なぜ、順序にこだわるのか
算数が苦手な生徒を教えていたときに、気づいたことがある。
彼らは、公式の計算方法は知っていても、その意味については理解できていないのだ。
例えば、
「たかしくんはりんごを3つ持っています。新たにりんごを5つもらいました。ぜんぶでりんごはいくつでしょう」
と聞かれると、
3+5 = 8
と書ける。
「たかしくんはりんごを8つ持っています。りんごを3つ食べました。りんごはいくつ残っていますか」
と聞いても、
8-3 = 5
と書ける。しかし、
「たかしくんはいくつかりんごを持っています。たかしくんは、持っているりんごを3つ食べました。食べたあとには、りんごは1つ残っています。はじめに持っているりんごはいくつでしょう」
と、問題を複雑にすると
3-1 = 2
などと間違えるのである。
これは、この子供が問題文を理解した上で計算を行っているのではなく、「問題文に出てくる数字」を、「足す引くを問題文の雰囲気から想像して」、「問題文に出てくる順番」で計算していることが原因である。
かけ算の順序問題も同じで、やはり順番を理解していないので、割り算の問題になると問題文に出てきた順で割り算を行ってしまう。
(酷い子になると割り算と掛け算を取り違えるが、大抵の場合は問題文の雰囲気は読み取れるようで、割り算であることは気付けることが多い)
つまり、この子供に関しては、計算には順序があることをよく理解させる教育が必要となる。
そこで、足し算やかけ算の段階から、本来の交換法則を無視してでも論理的と思われる順序を重視して教育を行うという発想になるのだろう。
つまり、この教育は、初期段階で今後の文章題に対応する力をつけるためのものだと評価できる。
たし算順序の問題
理屈は理解できるが、それでも納得できないところがある。
順序を重視することで、本当に分からない子が分かるようになるのか。
その観点からの批判も多いが、これはしょうがない部分もある。
国家レベルではそのような検証はすべきと思うが、教育者レベルでは、それこそ自分の生徒に試してみて、効果がありそうか判断するしかできないであろう。
今、困っている生徒に対して、「実験結果を待ってから」ができない事情はあるだろう。
最も多いであろう批判は、「そもそも足し算にも掛け算にも論理的な順序など無い」という主張だろう。
こちらに関しては、「常識的には順番がある」ケースがあるとはいえ、考え方次第なので私も同意する。
そもそも、上記の説明でもある通り、順序を理解していない生徒は、引き算や割り算で炙り出せるのだから、数学的におかしい採点をすべきでないと思う。
ここまでなら、多く指摘されているのでわざわざ言う必要もないかもしれない。
私が言いたいのは、次のことだ。
文章題を解く力と、計算問題を解く力
以下のサイトから、算数問題を引用する。
問題
A町(川上)とB町(川下)の船着場は16km離れています。船を利用して、A町からB町へ行くには1時間かかります。しかし、B町からA町に帰るときは2時間もかかります。
船の速さと川の流れの速さが一定だとすると、それぞれの速さはいくらになりますか。
さて、解けるだろうか。
「解けるとは思うが、解法がぱっと思い浮かばない」
なんて人も多いのでは?
私自身、学生時代に得意な科目は数学であったが、正直言って文章題は苦手だった。
文章題を解くには、計算問題とは違った能力が必要と感じている。
もちろん、数学を理解するには文章題も理解しておくべきなのだろう。
しかし、私はそこそこの大学に行くことができたが、文章題は結局苦手なままであった。
以下は、2015年の東京大学、数学過去問である。
http://www.u-tokyo.ac.jp/content/400031716.pdf
ざっと見てもらえればわかるが、複雑な文章題は殆ど出題されていない(確率の問題だけは、やや複雑になっている)。これは東京大学に限ったことではなく、大学受験において複雑な文章題はそれほど重視されていない。
そもそも、文章題というのは個別具体的なシチュエーションを想定して作られる。
それに対して、高等数学になると、分野にもよるが非常に抽象的で、具体的な設定から離れていく傾向にある。
公式というのは、正に高度な抽象化のたまものであるし、整数論に個別具体的な何かを考えるのは無粋だ。
つまり、数学者になるのにも、大学受験にも、必ずしも文章題を解く力は要求されていないようである。
算数に挫折するということ
数式操作はできるが、文章題になると途端に解けなくなる。
そんな悩みを持った生徒や親は多いのではなかろうか。
「文章題」で検索すると、「文章題 苦手」が一番の候補に来るくらいには、文章題を苦手とする子供は多い。
私は言いたい。
文章題は、絶対にできないよりはできた方がいいとしても、計算問題ができるならそれほど悲観することはないのだ。
複雑な文章題を読み解いて数式に起こす力がなくても、数学はできるのだ。
そこで挫折して、算数や数学の才能の無さに絶望して諦めて欲しくないのだ。
先生方にも、このような視点で教育をしていくことはできないか、考えてみて欲しい。
足し算や掛け算の順序を考えることができなければ、その後の学習でつまずいてしまう。
あるいは、そういうこともあるかもしれない。
しかし、それはあくまで文章題に躓いているだけである。
「足し算がわかる」という子供の「思い込み」を、計算問題はこなせるという自負を、「足し算は順序が理解できないとわかったとはいえない」と子供に教えることで砕くことはして欲しくない。
本来難しくないことを、難しくすることで、算数の段階で落ちこぼれる生徒を増やしてほしくない。
それを切に願う。
以上。