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読書記録など。

清水真木『これが「教養」だ』 書評

清水真木『これが「教養」だ』 読了後の感想。

この本は、「教養」という言葉の歴史を示し、日本の「教養」という言葉の受容の経緯を探った本。

「教養」という言葉そのものは「ビルドゥング」というドイツ語の訳語として使われた。それが、日本では「修養」という言葉と混ざり、現在の意味に変化していった。概略としてこのような理解でいいと思うのだが、この本の教養の変遷の記述は全体的に散らかっていて、読み返してみても一体どういう意味で使われていて、どう変化したのかがよくわからない。「教養」という言葉が曖昧だからといって記述まで曖昧じゃ読んでいて困るのだが。

教養の原点は当然ながら西洋にあることになる。しかし、教養の代表格である古典(ここでは古典文学)は古代において、作家が過去の文章として参照する価値のある、よくできた文章であることが第一義だったという。また、当時の世界の文化を多く伝えている作品も評価されたという。つまり、現在の古典受容はもっぱら実学とは離れた、実際に役に立つというよりも読者の人格を陶冶するような意味で捉えられているのに対して、少なくとも中世頃まではむしろ実学的な意味で捉えられていたことになる。しかし、ロマン主義の登場により、オリジナリティのある作品が重視されるようになるにつれ、古典は、参照して真似すべき作品群から、真似になっていないか確かめるために参照するものに変化していった。古典はある意味敵対勢力になったわけだ。

しかし、さらに時がたち、古典を役立てるために読むのでなく、古典を読むことそのものを価値とする文化が誕生してくる。ドイツのヴィルヘルム・フォン・フンボルト(地理学者として著名なフンボルトの祖父)が現在の意味での古典受容の先駆者だそうだ。

このあたりの古典についての話は面白かったが、教養の意味の変遷については読んでてよくわからない上にそれほど重要とも思えなかった。

著者は教養という言葉の本来の意味を取り戻そうとしたいのだろうが、そのために「言葉の意味は変化する」という言語学的常識を無視したような論になっている。現在の「教養」は本来ない付随物がくっついたものだという批判は、現在の意味の教養がなぜ駄目なのかをしっかり説明しない限り、無意味である。ただ単に、昔と意味が変わっているから駄目だと言っているようではそれこそ駄目だろうに、そのように受け取れてしまう書きぶりである。

清水氏は、本書の途中で出てくる、「お年玉を上げたくない人はお年玉の歴史から、現在の風習は過去と違っていることを調べあげて、正当化を試みる」という話を実践しているのかもしれない。