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男女平等問題を「腕力」で例える誤りについて

下記のツイートが話題になっている。

 ブクマコメントでは叩かれ放題のこのつぶやきだが、ではなぜこのつぶやきに問題があるか。

意外に指摘されていない点があったので書いてみる。

「殴りっこして勝ったやつが総取り」の誤謬

このツイート主は、社会は「殴りっこして勝ったやつが総取り」と主張している。これは過去の社会にあったとホッブズリヴァイアサンで主張されるような「万人の万人に対する闘争」状態をイメージしているのだろうが、とはいえあくまで比喩のつもりだろう。

つまり、ある種の社会的地位や実力のことを「殴りっこ」による勝者という形で例えていることになる。

しかし、この例えは少なくとも男女平等の話の例えとしては致命的な問題点を含んでいる。

「腕力」という力を「社会的能力」の比喩として使うことになり、女性の能力を不当に貶めることになるからだ。

社会的性差と身体的性差

腕力において男性が女性に勝ることは言うまでもない。

個々では男性に勝る女性もいる。しかし、オリンピックの結果を見ても、他の種々の調査を見ても平均として女性の腕力が劣ることは誰しも認めるところであろう。

これはいわゆるジェンダーとしての性差(社会的性差)ではなく、身体的な性差にあたる。

そして、男女平等とは、身体的な性差を無くすのでなく、社会的性差を無くすという理念である。

 しかし、この区別がついていない人も数多い。

男性優位の思想

「腕力」を「社会的能力」の比喩として使うことは、男性が女性よりも優れていると連想させる効果を持っている。

「腕力」は男性のほうが強いのだから、女性は「男女平等」の社会では男性に太刀打ちできない。

だから、「男女平等」の社会では女性は不幸になる。

そんなロジックがツイート主にあるからこそ、

女性は「後ろで見とってええで。取ってきたるから。そのかわり戦利品に文句言うなよ」なのな。そこに参入しようってんだから、そら「殴られてもええんよね?」

という発言につながる。

女性は男性と争っても勝てないのだから、男性同士の「代理戦争」に人生を託し、自分はパートナーの男性が得た成果のおこぼれを頂戴するのが最も幸せなのだと。

このロジックに本人は疑問を感じないだろうが、それは無自覚的に男女の身体的性差である「腕力」を比喩として使った結果なのだ。

奴隷制度肯定論

古代ギリシャでは、通常の「市民」の多くは奴隷を持っていた。

奴隷とは、主人である「市民」に逆らうことは許されず、主人が許した範囲の人権のみを持つ存在だ。

当時の「市民」たちは奴隷についてどう理解していたか。

「彼らはまともな社会的生活を送るための頭脳を先天的に持ち合わせていないから、私たちが保護して生かしてあげる必要があるし、彼らにとってもそれが幸せなのだ」

と一般的に思われていたらしい。

この発想は、今回のツイート主と驚くほど類似している。

自己正当化の論理はいつでも似かよるものなのだろう。

 

男女平等以前の問題として

男女平等という理念を達成することはかなりの困難を極めることは間違いない。

厳密な社会的平等は難しいかもしれない。

しかし、そもそもの話の土台として、現代の社会は決して「男性が身体的に優位」である腕力や暴力によって「社会的地位」や「社会的価値」が決まるわけではないことは確認しておこう。

ネット上ではフェミニスト嫌いが多く、また私もフェミニストの議論に首を傾げることも多々ある。

それでも最低限、「身体的性差」と「社会的性差(ジェンダー)」の違いくらいは理解した上で議論ができるようになってもらいたいものだ。

 

以上。